ポーランド政治・社会情勢(3月23日〜29日)

 

1.ボロフスキ社民党党首、左派全体の大統領候補を目指すと発言

 3月24日、ボロフスキ社民党党首は、「例えチモシェヴィチ下院議長が立候補するとしても、私は立候補を取り下げない」と述べた。与党・民主左翼連合(SLD)では、9月の大統領選挙では左派統一候補を擁立すべきであり、チモシェヴィチ下院議長が最有力候補とされている。ボロフスキ氏は以前から立候補を表明しており、今回の発言は、自分こそ左派の統一候補だと改めてアピールしたものと受けとめられている。

チモシェヴィチ下院議長本人は、未だ立候補するか否かを決めていないが、擁立に熱心なヤニクSLD院内総務は、「(ボロフスキ氏の立候補は)左派の票を分散させる」と批判している。世論調査では、ボロフスキ氏、チモシェヴィチ氏もほぼ16〜17%の支持率で並んでいるが、ボロフスキ氏の大統領立候補は国会選挙での左派連立の最大の阻害要因とされている。

 

2.国民記録機関、J.コブィランスキ氏をジェノサイド加担の容疑でパラグアイ政府に引き渡し要求か

3月24日、国民記録機関(IPN)(注)は、パラグアイに居住するポーランド系の富豪、J.コブィランスキ氏(81才)には、大戦中のドイツによるユダヤ民族虐殺行為に加担した疑いがあり、パラグアイ政府に犯罪人引渡しを要請する可能性もあるとした。同氏は「ラジオ・マリヤ」局や極右のポーランド政治化数名の有力スポンサーとして有名。

IPNによれば、同氏は1940年、ドイツ占領下のワルシャワで、知合いのユダヤ人富豪にポーランド脱出用の偽造身分証明書の作成を持ちかけ、報酬として巨額の金槐を得ながら逆に独軍に密告した疑いがあるというもの。このユダヤ人一家は収容所で虐殺されている。ポーランドでは、独軍のユダヤ人虐殺は国際法で言うジェノサイド(特定集団に対する無差別殺害)に該当し、関係者は特別法により時効は適用されない。

コブィランスキ氏は戦後にポーランドから南米に移住し、繊維製品等の貿易で巨額の財産を築いたが、その原資はこの金槐だと言われている。反ユダヤ主義的発言で有名で、中南米諸国駐在の元ポーランド大使は、「ポーランドのイメージに非常に悪影響を与えている」と述べている。なおコブィランスキ氏自身は嫌疑を否定している。

(注)国民記録機関(IPN):第二次世界大戦期と戦後の社会主義時代の、ナチス・ドイツ、社会主義政権の非合法行為を追求する法律上の特設機関で、当時の秘密文書を管理・調査し、検事局と同様の捜査権を持つ。

 

3.ポーランド下院、カティン事件に関する決議を採択

3月24日、ポーランド下院は、いわゆる「カティン事件」での殺害行為は、第三帝国とソ連の共同計画の一部だったとし、犠牲者に対し下院の栄誉を授与した。同時に、ロシアの軍事検察庁が関係者の捜査を終了としたことを遺憾とし、全面的な真実の公開と、スターリンら計画の指示者だけでなく、実行者の特定と処罰、を要求した。

この決議では、「スターリンとその側近を含むソ連の最高指導部は、残虐な方法でカティンの森、トゥヴェーリ、ハリコフで約22,000名のポーランド市民を殺害した。」としている。チモシェヴィチ下院議長は、「1992年にエリツィン大統領が本件をソ連当局の行為と認め、謝罪したのに比べ、その13年後にプーチン大統領が殺害者の氏名の公表をためらう理由がわからぬ。」と述べた。

当日、下院の会場には遺族代表も参加し、下院に感謝を表明した。

(注)「カティンの森」事件

 1939年9月のソ連によるポーランド侵攻で、数万名のポーランド将校がソ連領内に抑留され、1940年春に、約22,000名がスターリン、ミコヤンら当時のソ連共産党最高指導部の命令により集団虐殺されたもの。三カ所の虐殺地の一つがロシア・スモレンスクに隣接するカティン村の森の中で、ここが最初に発見されたために「カティンの森事件」と総称される。

 1941年のドイツ軍による発見当時から、戦後もソ連は一貫して「ナチス・ドイツの犯罪」としてきたが、1992年、エリツィン大統領のポーランド訪問で始めてソ連内務人民委員部(NKWD)と認めた。本件を捜査してきたロシア軍事検察庁は、事件はジェノサイドには該当せず時効であり、また百数十冊に及ぶ関連文書の内、約九十冊を「国家機密に該当する」としてポーランド側への提供を拒否している。

 

4.モスカル全米ポーランド協会代表、シカゴで死去

 3月22日、全米ポーランド人協会(PAC:Polish American Congress)のモスカル代表が、自宅のあるシカゴで死去した。81才だった。

 モスカル氏は1988年に代表に就任した。その在任中、PACは1999年のポーランドのNATO加盟など、米国政府に対するロビー活動を成功させている。

しかし、90年代中盤から反ユダヤ主義的な発言を公に繰り返し、2000年にはブゼク・ポーランド首相に「ユダヤ系に国を売り渡した」と公開書簡で非難した。このため、同会長、更にPAC自体も米国政界での地位を失い、かつてはPAC会長も歴代大統領に招かれていたのが、現在はポーランド大統領の訪米時にもゲスト・リストから外されている。NATO加盟などのロビー活動も、ノヴァク・イエジョラィンスキ氏ら良識派がPACの幹部を説き伏せ、モスカル氏にPAC代表として大統領宛の書簡に署名させたという状況だった。モスカル氏が会長職を維持できたのは、ポーランド系を顧客とする保険会社の社長として、常にPACの財政を握り、また支えてきたことによる。

PACでは、当面副会長が会長を代行し、5月の大会で新会長が選出される。在米ポーランド社会では、PACが米国政界に正式に復帰するのを望む声が高い。

 

5.FOZZ事件、逮捕以来14年で判決

 3月30日、ワルシャワ地裁は、対外債務返済基金(FOZZ)を巡る横領、背任事件の判決を言い渡し、G.ジェメク元FOZZ総裁が1,500万plnの横領と4,700万plnの国家に対する損害で、禁固9年、罰金72万pln、同副総裁のJ.ヒムは禁固6年、罰金50万plnとなった。他の被告も全員有罪となった。被告は全員無罪を主張し、控訴した。

 FOZZは、1989年2月、最後の社会主義政権であるラコフスキ内閣が、ポーランドの債券が西側市場では既に額面の10分の1以下に下落していたのに目を付け、密かに買い戻しを行うために設立した一般会計外の基金で、総額数千万ドルと言われる。リスケ交渉を行っていたポーランド政府が市場買い付けを行うのは契約違反であり、オペレーション自体が秘密だったため、大部分が当初の目的外に使用、使途不明となった。規模の大きさと軍情報部の関与などから、1989年の自由化後最大の疑獄とされ、今回の被告の横領、濫用はその一部と言われる。

 裁判が14年にわたったのは、事実関係の認定が複雑だったのに加え、被告側が弁護人不信宣告など様々な法廷戦術を行ったことによる。今回の判決も、時効との時間との競争と言われていた。設立に関与したラコフスキ首相、サヴィツキ大蔵次官(いずれも当時)や、軍情報部の関係者などに関する全容の解明は、今後も困難と見られている。

 

6.アダム・マウィシュとポーランド・スキー連盟の争い

スキー・ジャンプのスター選手であるアダム・マイウシュと、ポーランド・スキー連盟の間でスポンサー契約を巡る争いが続いている。

マウィシュは、無名時代からオーストリアのスポーツ・マネージャーであるフェデラー氏と代理契約を結び、2001年までは、フェデラー氏が事実上マウィシュと企業スポンサーの契約を独占していた。ポーランド・スキー連盟はマウィシュには強化費や遠征費などで支援を行っているとして異論を唱え、同年、マイゥシュのスキーウェア上の広告を中心に、委託交渉権の半分を連盟の権利とすることを認めさせた。昨2004年9月、協会側は、フェデラー側がスポンサーとの契約で連盟の名前を勝手に使用した等の理由で、この契約を全面的に独占しようとしたが、マイウシュ本人の強硬な姿勢で断念した。マィウシュとフェデラーの契約額は約90万ユーロと言われる。

しかし、3月に連盟側は本件を再度蒸し返し、同22日、マイゥシュは、もし連盟側がフェデラーとの契約を認めないなら、トリノ・オリンピックのボイコットも辞せずとし、フェデラー氏はオーストリアでの訴訟も辞さないとしている。

マスコミやファンはマイウシュ側に同情的で、マイウシュがどんなに活躍しても、連盟が出す報奨金はソルト・レーク・オリンピックの7万PLNなど小額で、マイゥシュが連盟に対し不信感をもつのも無理はない、という印象を伝えている。